ぼくらは「普通」が失われた世代だ

と、簡単に世代論でくくってみる。

「凪。普通ということをどう思う?」


「ぼくら」とは、つまり1995年(阪神大震災地下鉄サリン事件)以降に思春期を過ごした年代のこと。


この世代−−特に地方でのこの世代−−の「普通」はディスプレイの中にしかない。
ドラマか、芸能界。あるいはアニメか、ゲーム。


その「普通」は、ぜんぜん普通じゃないから、普通の世界の住人は苦しむ。

都会に出て、丸の内で働いてみたり、代官山で服を買ってみたり、
あるいは秋葉原で2.5次元な俗っぽさを体験すれば
(メイドの人は、何を思ってメイドの服を着ているのかなあ。と考えたりとか)
少しの間は気がまぎれる。


気を紛らわしながら、何とかすごすことも可能で、世の大半はそんな風に動いている。



「なぜ自分の周りには普通の人間しかいないのか。こんなの、ぜんぜん「普通」じゃない!」


そう憤るのも、じつは普通のことで、
だからこそ、より病理が深い。
自分が特別だと思う人間は、ぜんぜん特別な存在ではない。


話が発散してきたが……。


つまり、テキトーに換言すれば、
ぼくらはまだまだ進化しきれていなくて、なにかしらわかりやすい物語がなくては、生きていけないのだ。
そして、そのわかりやすい物語の主人公に自分を据える。


そんな精神作用は、微笑ましい、といえなくもない。



世の大半が、微笑ましいことでできている。


「普通の人間には興味ありません。宇宙人、未来人、超能力者、異世界人がいたら、私のところにきなさい。以上」






追伸:
しかし、こういう独り言が言えるというだけで、webの発明は偉大だね。
不特定多数、顔のない隣人への独り言。


たいてい、現実でこんな議論をしても、
人は反応しないものだ。
反応に困る、とも言う。


ぼくも同じことをされたら困るだろうから、まあ、お互い様だけど。