楽器としてのミクと感情のさよなら

supercell (初回生産限定盤)

Supercell初音ミクCDが発売されました……
ということなんですが、街で売っているのをまだ見かけていないっす。


仮説1:
超人気(超監督のイントネーションで)なので、売り切れ中。



仮説2:
出荷枚数がもともと少ないので、専門のお店じゃないと入荷してない。



どちらにしろ、もう少し待ちましょうか。
収録曲はたいてい聞いたことあるし。



話は変わって『ワールドイズマイン』『メルト』みたいな激甘ソングもGOOD!
ですが、実はこういうのも好き↓



なんとなくBUMP OF CHICKENの『K』を思い出しますね。



いやはや。
もしかしたら普通の人が聞いたら単なるジョークソング(「おらはしんじまっただー」みたいな)なのかもしれませんが
僕的には感情移入して泣いてしまいますよ。



いや、まじめに。全力で。
なきそうです。






追記:

この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。


   ―― 『算術』に関するピエール・ド・フェルマーの書き込み


情緒的な共感は別にして、
「(ある種の)世界に対する決定的な影響力を、誰も知らない人が持っている」という状況(への親近感)は、ポストモダン的である。
たとえば、日本の主婦の小遣い稼ぎFXが、世界の通貨相場に影響を与えたり、食品会社の一担当者の味覚が、その商品の原料生産高に影響を与えたり、とかそういう状況。



いや。
つまり『物理屋のサヨナラ』な状況においても、共著者が内容の大半は把握しているのが普通のはずである。
(すくなくともスーパーバイザーは知っているはず)


それでも、自分ひとりの思いつきで、ほかの連中がお盆休みで研究室にいないときに、ちまちまと計算して、ある程度の形にまでなって、驚くべき発見で、そして自分以外はそのことを誰も知らないのだ、という状況を妄想することは、不可能ではない(アクセプタブルである)。



こう書いてみると、作家の遺作と似ていますね。
あるいは作曲家の遺作か。



もともと僕は、研究者というのはお笑い芸人と同種の職業
―― ねたを考えて、それは今までと異なっていなくてはならないが、しかし今までと地続きでなくてもならなくて、文章として書きとめ、発表するが、プレゼンの舞台と仕方も重要であり、一発得意技をもっていないと誰からも呼ばれないが、しかしそれだけに頼ると一発芸人で消費されて終わってしまい、例によってテニュアは遠い ――

だと思っていたのですが、ある面では作家にも似ているようです。



「美しいことを追求する」という面も考えると、作家のほうが近いのかもしれません。
いや、でも肉体的パフォーマンスも重要だしな……。
作曲家のほうが近いかも。




クリエイターでなく、コンポーザーである、という意味でも。




自然と自分自身から、何かを構成する(compose)という意味合いでも。