本日一報、あるいは魂の郊外たる未来について

ネット上の俗語<ジャーゴン>で、「日本人は未来に生きてるな」というのがある。それは、日本の奇妙な風習(ペット型ロボットとか、奇妙なアダルトショップとか)に対する揶揄の言葉だと思うのだけれど、最近は、本当に日本人は未来に生きているな、と思う。マジなところ。


わたしたちは、未来に生きている。未来は一言で「退屈」だ。未来は単に広大で従順な魂の郊外のことだ。


でも、この感触は、歴史的には間違いなのかもしれない。僕は、僕が受けた教育によって、あるいは自分自身を教育することによって、たぶん、次のように思っている。私たちは、私たち一人一人に固有のもの、魂の機能、人間の機能、個人の機能――生きること、怒ること、悲しむこと、考えること――それらを「持っていて」、でも、現在が未来になる中で、それを切り離し、自分の手から投げ捨て、外注に出した。どこかのシステムが、メニュー化し、梱包し、提供する、テレビやコンビニで売られている商品にしてしまった。そう、無意識のうちに考えている。でも、それって本当なのか?


本当に、私たちが魂を持っていた黄金の時代――私たち一人一人が魂と人格を持ち、生きること、怒ること、悲しむこと、考えること、それらが自分の固有の物であった時代など、この国と社会に存在したのだろうか? 私たちは、そんな過程をすっ飛ばして、一息に古代から未来に連れ去られた、哀れな「人間」なのではないだろうか。人間になったことのない人間。大人になったことのない老人。