跳んだ文章を書いてみよう。

すこし「とんだ」文章を書いてみよう。すなわち論理とか倫理とかと関係ない文章のことだ。人はそれをポエムとか、あるいは夜中に書いたラブレターとも呼ぶ。

最近、「普通の」思考をすることが多かったので、ある種のバランスをとるための行為ともいえる。別にバランスをとる必然性はないのではあるが。

以下はかなり電波な文章になるとは思うが、中学生の書いたポエムと思ってあきらめるか、あるいは「続きを読む」をクリックしないで、スルーするかすれば大丈夫である。以上注意書き終わり。


そういえば私はつい一ヶ月ほど前に社会人になったのであるが――この言葉もよく意味がわからないので、ある後輩が指摘したように、つまりは労働者になったということだろう――基本的に環境が変わった最初のころというのは、みな、様子を見るためにパワーを落として活動し、観察に余力を振り向けるものだ。私も多数派の行動原理を選択したのではあるが、しかし、それでも変わっているといわれてしまった、悲しい。というのは嘘で、変わっていると思われるのはむしろうれしいのではあるが、「最初見たときはふんぞりかえって煙草を吸って、ポケットに手を突っ込んでいて、感じ悪いなあと思った」といわれたときにはとてもショックだった。私としては最初のうちは正体を隠して(え?)結構謙虚に行動していたのに、やはり本性は傲岸不遜なのか、と。そこいら変は善処したい。まあ、そのあと印象ががらりと変わったそうなので、まあ本性が小心者なことは確定なのだが、第一印象が悪すぎだよ私。すこし研究しよう。


さてさて。ここで一向。基本的に、人はなんにでもなれる。慣れる。成れる。鳴れる。馴れる。こういう言葉があるという。本当だろうか? まあ、人はどんなものにも永遠になれない、とかっこつけていうより幾分かは真実味があるが、しかしながら、それが果たして幸福なことだろうか、ということについては疑問が残ることもなくもない。「なる」ことは省力化をもたらす。それは物理的な作業でもそうだし、思考的な作業でもそうだし、人間関係も同じだ。なるべく少ない資産で人生を運営していこう、というネガティブコストの思想であったなら、これは重要なことだろう。しかし、「なる」ことは事象を記号化するということでもある。記号化された事象は、発展した意味を与えない。往々にして、感受性や思考法を記号化することが、人間を高度にすることのように思われがちであるが、しかしそれは微妙なことであろう。少なくとも私はそうは思わない(この表記は便利だ。相手が何も反論できない)。もう、こうなると好き嫌いの発想か。と、ここで途切れた。ここで飛ぼう。



つまり、日差しが強いことに何を求めるか、ということでもある。鮮烈な日差しは確かに布団をほすには便利だが、しかしそれを浴びながら朝寝をするには強すぎる。つまりはそういうことだ。



誰だって、自分以上のものにはなれないし、自分以上のものにしかなれない。
これはレボリューションとエボリューションの違いだよ。



君の猫はどっちにいった? 未来か? 過去か?



エネミーインザクライ。



人がなにかをやると、そこに追随しようとするひとが多いのはなぜだろう。
ひとがやったら、もう自分はやらなくてもよい、という考えのほうが自然ではないだろうか。



朝の4時におきて、河川敷に飛行機を飛ばしに行くような。そんな綺麗な思い出はなかなか見つからない。



アンダーハナミアル。



目覚ましとシガーケース、世の中にとって重要なのはどっちだと思う?



ぜんぜん脳味噌を使っていないね。と、相手に自然に言えるような関係というのは、とても幸福だ。ある種恋人同士のような関係とも言える。



オクトサウダージ



君の名前で使っていない部分はどこ?



立場と自分と、どちらが大事だろう?
そう問うたら、みながみな、「自分」と答えるだろう。
つまり、みんな嘘つきということだ。



これまでの文章で、僕は嘘を3回ついた。



ニューメリカルビジョナリー。



このセッションが、このエントリーが、「風の歌を聞け」に似ているといわれたっら、僕はちょっとうれしい。そして面白がるだろう。



つまりは。同じことを何度も何度も何ども、書いていくうちに。きっとそれが真実になるのだろう。それがいやな人というのは結局、結局、どうしようもない。



ジャヌアリージュピトリジャン。



では。しばしの休息を。