プラグマテック?

気に入った表現の抜粋メモ。

ひどく実際的、プラクティカルな目的機能をもっているんだ。ホールアースカタログは、全ての膨大な情報を個人のもとに取り戻すことを目的としている。そのアイテムは有用で、高品質で、安価で、目的的でそして郵便で簡単に手に入るという、実に実際的な機能をもっているものなんだ。

「実際的」なものほど、逆説的に物語が付随する気がします。

Access to tools and idea(道具とアイディアへのアクセス)というショルダーコピーを持つホールアースの文化について、東京にすむ日本人が説明するのは、気が遠くなるほど難しい。

後半、なんとなく村上春樹っぽい。

そう、それはたしかに商品カタログなのだ。しかし、各商品には編集部がつけた短く適切なコメントや、書籍ならその要約や抜粋が載っていて、だから全体としてみれば、それは新しいライフスタイル実践のための、壮大なガイドブックと見ることもできた。「全地球」などという大ぶろしきを広げて、新しいライフスタイルを述べるとなれば、押し付けがましく、まただらだらと、能書きばかりを書き上げるということになりやすいが、スチュアート・ブランドたちはきわめてプラグマティックな姿勢でこの作業にのぞんだから、このような罠に落ちることもなく、画期的なガイドをつくりだすことになったのだろう。偉そうに、著者は世界のすべてを知っているんだとふんぞりかえることもなく、その反対に、ここまで多様な世界から、こんなすてきなものを集めてきたよという姿勢が見えて、私はその開かれた感じが好きだった。

道具とは、工具類のような字義どおりの道具ではなく、なにをするにしてもきちんと知っておかなくてはいけない知識や情報の総体、というような意味だ。それへのアクセス、つまり多くの場合、すでに刊行されている活字メディアの紹介が、WEC内部の空間をぎっしりと埋めていた。
 そのような道具にアクセスするとは、自分が多少とも必然や切実さをともなって接近する領域に関しては、すべて自分で考えて自分で行動し、自分で作り出して自分で責任を取っていく、というようなトータルな覚悟あるいは自覚の、もっとも具体的な表明だった。


「表明」が重要である時代が、かつてあったのです。
 

 どんなことにせよ、本当に自分でやろうとしたなら、この程度のアクセスではとても間に合わない。
 これからの時代を自前で生きるための道具やアイディアへのアクセスが、説得力のある大きさと厚さの一冊の本にまとめてあると、それを手にした人はひとまず気持ちが落ちつき、納得もする。その納得の名称が、ホール・アース・カタログとは。アメリカにおける商品名の命名傑作修を編んだなら、この名は巧みな命名として、かならず拾い上げられるはずだ。

 それまでの大人たちが作ろうとしていたのとは異なるこうした夢のある未来を作り出すためには、とにかく抜け目なく賢く生きること、そしてなによりも自分の頭で考えることが、あの瞬間から求められ続けています。

 世界を動かすには、正しいコンセプトと強いインパクトと多大な仕事量が必要だということを、スチュアート・ブランドと彼の仲間たちは知っていた。要するに、きちんとしたビジネスをすること。彼らは<ホール>を売りに出した。断片化した現代社会から失われつつある<全なるもの>とのつながりを、抽象的にではなく、<アース=地べた>との接触によって表現した。


以上/。