わたしとティーカップ、あるいは預金通帳は自我防衛の弾薬となるか?


貴方は、自分自身をどれだけ信じているだろうか?
自分自身の連続性を。


一次元の線のように物事を考えている時はともかく、それが断絶するとき、自分自身は連続しているのだろうか。つまり、寝て起きたあと、ちょっとぼーっとしたあと、コーヒーを飲んで舌を火傷したあとにも、私は連続しているのだろうか。


「もちろん。私の自我は連続している」そう断言できる自信は、この「わたし」にはない。


私にとって、「わたし」というのは、固有モードであり、ある種の境界条件のもとで、瞬間的に生起するものである、という理解の方がしっくりとくる。自我とは離散的で、必要なときに過去を偽造しながら、その場しのぎに急造されるものなのだ。


(ありがたい事に、時空間は(古典近似的には)連続しているし、脳みその中のエピソード記憶も保持されているので、自我が消滅した瞬間と、また生成する瞬間のあいだには、かなり強い相関がある。ゆえに、まあ、大体の人間は、大体の自我連続性を備えている。しっちゃかめっちゃかな感じにはならない。閑話休題


なぜ私が、ここで私自身の「わたし」の理解を述べているのか。それは、私の物理的なものごと、フィジカルなファクトへのこだわりを説明するためである。


私は常に消滅し続け、そして生成され続けている。そういう世界観では、フィジカルファクトは、非常に大きな意味を持つ。もし貴方が確固たる自我とか、あるいは魂とかを持っていれば、物理的な某は、二次的なことである。ボロをまとっても心は錦である。


でも、自分というものが、物理的境界条件の上の仮想的モードであるとき、物理的な全ては、二次的なものではない。貴方は、貴方自身を取り囲む、社会、所属する団体、住んでいる土地、友人、本、服、ティーカップが規定するところのものとなる。貴方は眠るたびに消え去り、そして目覚めたときに本棚に並んだ書物の背表紙を見て、貴方自身を再び励起させるのである。貴方の本棚の本を、丸ごと他人の物に入れ替えたとき、貴方の友人をまるごと他人の友人に入れ替えたとき、貴方は徐々に(その脳みその変化するスピードで)、「他人」になることであろう。貴方の自我は、貴方の書棚に、貴方のクローゼットに、貴方のワインセラーに宿るのである。


だからこそ。私は、私の物理的選択権への強制的な介入に、鋭敏に反応するのであり、しなければならないのである。


それは、毎日スーツを着ることかもしれない。毎日スーツを着るものは、毎日スーツを着るところのものになるだろう。それは、9時から17時まで机に座っていることかもしれない。そういった生活を10年続けたものは、自然にそういったものになるだろう。それは、品揃えの不足した本屋に通うことかもしれない。そのものは、そこにある以外の本がない世界に生きるものになるだろう。毎日ベーグルを食べるものはそういったものへ、白米を食べるものはそういったものへ。インスタントコーヒーを飲むものはそういったものへ。総務部の不満顔のものに付き合うものはそういうものへ。宇宙人や未来人や異世界人と遊ぶものはそういったものへ。貴方は、貴方が選んだものが規定するところのものになる。


だからもし、貴方が自分自身の連続性を(確率的にでも)保ちながら、何がしかの方向へ生きていこうとすれば(そうしようとしていない場合は、特に気にしなくて良い)、貴方は貴方自身の物理的行動・物理的環境を注意深く構築しなくてはならない。もし貴方の物理的行動が、他者(マスコミとか、なんらかの管理者とか)に決められたとき、それは、「あなた」が削り取られたのだと、そう考えるべきだ。そしてその影響が、「あなた」を完全に消滅させてしまう前に、なんらかの行動を起こすべきだろう。


これは、「わたし」から私への、ささやかな助言である。






追伸:
なんかアナーキスト無政府主義者か、あるいは働くと負けだと思っている就職拒否者みたいな文書になってしまったが、べつにこの文書はそういったアレコレを推奨するものではない。

たとえば、働かずにひきこもって暮らすと、金がなくなる。いまの日本は資本主義なので、カネがないと、自分のまわりの物理的環境が維持できない。具体的には、欲しい本も買えないし、良い部屋にも住めないし、うまい飯も食えない。そういった金がないと達成できないものが「わたし」にとって重要な場合は、金を得る必要がある。金を得る方法はいろいろあるが、無産階級にとって、働くのはそれなりに効率のよい方法であろう。

「わたし」にとって重要な物理環境が、金がなくとも達成できる(「毎日、裸足でくらす」「市民プールで午前中に泳ぐ」とか)の場合で、働くこととコンフリクトを起こしそうな場合には、働かないほうがよいだろう。

面倒なのは、「金がないと困るが、働くこととはコンフリクトする」場合であるが、その場合は妥協しながら、なるべく「わたし」が保てる範囲の最良点を探すしかない。つまらない結論で悪いが、まあ、そんなものだ。

結局、言いたいことは、手段と目的を峻別しろ、ということかもな。とか一人で結論をつけて終わる。