都市と田舎と承認欲求

都会と田舎論争は結局、ジャスコAmazonだけで、人はどこまで生きられるか? という問に書き換えられる。


実はこれは20年前に女子高生を題材に宮台真司がやっていたことではあるのだが……。「人はどこまで動物化して生きられるか?」という問。これに対する答えは、最初は「動物的に生きられるところまで、現代社会は進化した」ように思われていたのだが、それは見せかけで、結局古典的な所属意識や承認感なんやらがないとダメであったというまあ、ありがちな物語として回収されたのであった。


これは言い換えると、ジャスコAmazonだけでは、人が健康に生きるには足りない。あとひとつ、マズローの上位欲求(承認欲求とか社会参加欲求とか)を満たすシステムが必要、ということになる。20年前はこの上位欲求は結局、社会とか会社とか、あるいは親によって充足されなくてはならないものであったが、2010年代の情報技術は、こういった欲求を満たす機械的システムの構築を可能にするのではないか。とも思う。


Twitter2ちゃんねるmixiは、こういった上位欲求充足システムの萌芽かもしれない。「マイミクやフォロワーの何割が実際の人間か?」という疑問を、貴方は持ったことがあるだろうか? マイミクの半分がよくできたbotだとして、貴方はそれに気づくだろうか? 今は不自然な応答からそれに気づくかもしれないが、それは結局、ちょっとした技術的な問題に過ぎないのではないか? この問題は、bot技術の発展、あるいは人間の思考力のさらなる低下(コミュニケーション手段の形式化)の両面から、いつか解決されるだろう。もしその流れを加速したいのなら、低人件費の労働者(中国内陸部か、アフリカか?)をAPIとして部分利用することで、応答の人間的滑らかさ導入を図っても良い。


結局、技術的支援によって、RPGの敵キャラのような、欲求を満たすためのアバターキャラを低価格で半自動的に生成することは、可能になりつつある。少なくとも原理的には。


そういった自動承認欲求充足システム ―― twitterbotを自動で生成し、人気の無さそうなtwitterアカウントのツイートをふぁぼるシステム ―― は、開始から10年も経てば、いまのジャスコのような効率的欲求承認システムに進化しているのではなかろうか。


という与太話もありだな。というきがする。

管丞相も、こういった承認配信システムの構築に公費を支出すべきではなかろうか。それが不安感に包まれた2010年代の日本への、ある種のモルヒネになるかもしれない。

とか時流にのって適当なことをいってみる。