一歩と勇気と超電磁砲

超電磁砲の23話を見る。

内容としては、最終バトルの前の「悪役を明確にする」「事件の背景を説明する」「仲間の結束を固める」回である。


よく出来ているなー、と思ったけれど、残念だったのは性急に「わかりやすい悪役」を出してしまったこと。



<以下、番組を見た人向け>
テレスティーナさんが、顔芸を披露しながら小悪党よろしくペラペラと悪事を喋るのでなく、
「ここは私たちに任せて(にっこり)」と社会的強者の立場を活かして振舞えば、
木山せんせいも、主人公組も、何もできずに曖昧な敗北感を抱えて終わったはずである。
電撃をとばせようがテレポートできようが、そういった物理的力とは裏腹に、
敵が曖昧な状況には、とことん弱いのが彼女らなのである。
<ここまで>



これはなんというか、僕の信念に近いのだけれど、力というのは、大きさじゃなく、方向が重要なのだ。


片手で戦車を持ち上げたり、テレポートできたり、レールガンが射てたり、100桁の暗算ができたりすることは、素晴らしい能力だ。
無いよりあった方が良い。


しかしもっと重要なのは、その能力を「何に」使うかだ。
世界の大抵のことは、テレポートやレールガンがなくても立ち向かえる。


銃でも、拳でも、お金でも。
飛行機でも、電車でも、自転車でも。
ペンと紙でも、ホワイトボードに書いた図でも、表情でも、言葉でも。


何はともあれ、立ち向かう方法を見つけることはできる。
だから、自分が何を持っているかは、じつのところ、自分がどこに向かうかを決める指標にはならない。






ここから、さらに居酒屋話風になっていくが、実のところ、
ちからを「何に」使うかより桁違いに重要な行為は、「何に使うかを決めること」だ。



世のすべてを知ることはできない。
神であっても、この世界ではすべてを知ることはできない。それがルールだ。


だからすべての選択肢の優劣を比較することはできない。
いつも不完全な情報から、人はなにかを決断しなくてはいけない。


その目隠しされた状態で、それでも、「何に自分の力を使うかを決める」こと。
暗がりへ一歩踏み出すこと。


その一歩こそが、勇気とよばれ、英雄と讃えられるべき行動だろう。


「どう戦うか」よりも「誰と戦うか」、そもそも「私は戦うのだ」と決めることが、本質なのだ。
いつだって最初の一歩には特権がある。二歩目からは、一歩目の繰り返しで用が足りる。







と。長々と書いてきたが、(画面は超能力バトルのほうが派手だけれども)物語のカタルシスというのは、「どんな超能力」「どんな魔術」といった、スペック披露よりも、「私は(たとえその敵が、悪でないとしても)戦うのだ」と決意するポイントにある。と私は信じているのである。



今回の話は、そういったコアなカタルシスに絶好の舞台だった気がするのだが、
そこはおざなりにされて、わかりやすい悪役が提示されてしまった。


悪役がわかりやすいが故に、主人公たちは「敵を自ら決める」という部分をショートカットしてしまう。

そうなれば、あとはどう戦うかだけだ。


いつレールガンをぶっ放すかだけだ。全力で。






私は、この物語の粗さが残念だなあ、と。
そう思うのである。