初詣と助剤と複雑系
初詣に行き、絵馬を観察することはなかなか楽しい。
もちろん、毎年毎年劇的な変化があるわけでもなく、
例年通り絵馬の内訳は、家内安全・商売繁盛が1割、彼氏ができるように(なぜか彼女ができるように、はない)が5分、残りが学業成就、というか志望校に合格できますように、という受験の祈願である。
私も大学受験のときは湯島天神にお参りに行ったので(境内で売っていたたこ焼きがとても美味かった)、気持ちは良くわかる。
しかし、本当に合格したいなら(そして合格が危うい、という認識があるのなら)、神社に行っている間に受験対策をしたほうが良いのではなかろうか。とも思う。
ミッションに対する成功率を上げるタスクに、最大リソースを振り向けるのが効率的であるのに、成功率が上昇しない(だろう。神頼みでは)タスクにリソースを振り向けるのは非合理である。
すくなくとも単純な計画主義ではそうであろう。
つまりこれは、
- もしかしたら神頼みしたら、ミッション成功率が上がるかもしれない
などの効果を期待していると推測される。それが信仰というものであろう。
益体もないことを述べてきたが、つまり単体の不合理も、システムとしては合理的であることがある、ということである。