本日一報:理学と工学、あるいは個人における研究スタンスの違い

デスクが届いた。これで、家にささやかながら書斎スペースを整えることが出来るだろう。


話が変わるようで変わらないけれど、昨年末、ある方が「理学と工学の研究の仕方の違いに戸惑ってる(大意)」という悩みを持っていて、それについて興味深い話をした。いろいろと細かいことを無視してしまうと、理学(サイエンス)の研究が世界についてまだ分かっていないことを発見して識る(我々がまだ分かっていないことを見つけるのがそもそも難事業)活動なのに対して、工学(エンジニアリング)の、特に手先が器用な学生は、そういった課題や問題設定をすっ飛ばして、なんか良くわからないけどとりあえずプロトタイプを作ってしまって、それで研究と言っていて、違和感を感じる、というような話であった。


最初に、私個人のバックグラウンドを述べておくと、大学教育は理学で受けたが、仕事でやってることは工学である。そして研究の仕方は、古典的なトゥラビアン方式(K.L. Turabian, "A Manual for Writers of Resarch Papers, Theses, and Dissertations" とくに改訂版で追加された"The Craft of Research") に依っていると思う。


そんなこんなもあって、年末にその話を聞いた時は、自分は理学と工学の両方をかじってるつもりになって、いろいろ話をしたし、「工学の学位、とくにマスターは(医師や法曹家と同様に)職業学位であってアカデミックな学位ではないのだから、実技が出来て手が動かせれば別に良いのでは」みたいなことも言ったりした。しかしこれは、自分が井の中の蛙と知らずして、偉そうなことを言ってしまったと言えるだろう。


というのも、先日、ある情報工学部の研究室や学生と話す機会があったのだが、そこで為されていた「研究」は、まさに年末に話されていた「なんか良くわからないけどとりあえずプロトタイプを作った」ものであったのだ! そこで私は、はたと気がついたのである。なるほど、私がいままで工学だと思っていたのは、基礎工学とかなんかそんな感じで呼ばれているもので、本流からすると、超理学よりのものを「工学」だと勘違いしていたのだっ... と。


だいたいにおいて、理学系の研究というのは、

1. 世界について、誰も知らないことがある
2. それを知ると、世界をより良く理解する助けになりそう(あるいは面白そう、もしくは美しい)
3. それについて調べて、理解する

という手順で進むかと思う。3にはお金がかかるので、そこでいろいろあったりするが、まあだいたいこんなもんである。

それと対比させると、私が今まで「工学」だと思っていた研究では、

1. 世界について、何となく分かってるけど、良くは知らないことがある
2. その詳細な知識を知ると、それを応用して世界の役に立ちそう(あるいはお金が儲かりそう)
3. それについて調べて、理解し、応用の方法を提示する

といった感じで進む。モチベーションが「役に立つ」というところで、かなり強い制約がかかるのだが、まあこれは、渡世の義理と言うか、資本主義社会で給金を稼ぐための方便なので仕方がない。それに、もし運良く良い問題を選ぶことが出来れば、「役に立ち、かつ美しく世界をより良く理解する助けになる」課題を選ぶことすら、可能かもしれない。(それは大変に難しいことではあるけれど)


しかしながら、昨日私が見せられた、たぶんある種の工学研究は、そういったものとはどうにも違うように見えた。大雑把にいうと、

1. なんかできそう
2. 作った
3. できた

みたいな感じなのだ。私はそれを見て、正直ひどく混乱した。おもわず「で?(So what?)」と言いそうになった。(言わなかったが)OK、君がやったことは分かった。で、だからそれがなんだというのだ? それに何の意味があるんだ? 君は何を「研究」したんだ? といった感じだ。シェイクスピア演劇を観に行ったら、トランスフォーマーの映画だった、みたいな。

不思議なことに、周りの人は、それについてまったく疑問を持っていないか、あるいは私よりも完璧に礼儀正しく表情にまったくその気配を感じさせなかった。だから多分、その研究室では、それが普通なのだろう。


そこで私は、年末の話を思いだし、「むむむ」とうなったのである。なるほど、こういうことか、と。下手に似たような単語、似たようなスタイルをとっているから、同じような文化圏と誤解しがちだが、これは、完全な異文化コミュニケーションである。たとえば、いま居るところがイスラム法学者の研究室だったら、私はここまで混乱はしなかっただろう。最初から、自分のやり方が通用する場所とは思っていないからだ。




(暗転、唐突に終わる)