ぼんやりと使途、網と幻想


その1: ぼんやりとすること

学会の後はいつもそうだが、どうにも気分が落ち込む。

巨大スクリーンにスライドを映して、百人単位プロに向かって発表して、いろんな人と出会って話して、おいしいもの食べて、見慣れない街を歩いて、といったハレの日々から、いつもどーりのケの日々に帰還して、そうなるのだろう。

よく「あの輝かしい日常」とか、ゲームの主人公が言ったりするが、それは非日常が日常に、日常が非日常に入れ替わっているときのレトリックに過ぎないのであって、実際のところ、日常は日常であって、現実的でトロイものである。

そんなかんじのハレーケ理論の他に、学会の後は、特にしめきりもなく、かといって、熱中していたネタは掃き出してしまったので、ネタがない、というのもある。

ネタ探しは難しい。ネタが発見できなくて鬱鬱とするのは、まあ、ネームができない漫画家みたいなものである。



その2: 死と記号について

「願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」とは誰の句であったか。

この句を美しいと感じるのは、不可能な理想を歌い上げているからであろう。

花、春、望月、そういったものが象徴する、美の記号性、あるいは記号性を担保する社会性とつながったまま死ぬという不可能。

死ぬとき、脳の活動電位が平坦になり、行動順位の選択が生存第一に書き換えられ、動物の原理がむき出しになるとき。
我々ははたして、記号と社会性を保持できるのであろうか? むしろ身体は、そのようなものを、真っ先に打ち捨てるのではなかろうか。

パソコンのハードウェアがどんどんと錆び付き、死んでいく中で、半透明ウインドウやら、3Dデスクトップやらは、真っ先に機能停止されるのではなかろうか。


誰かが言ったように、フィクションと物語に頼らず、余命3ヶ月をリアルに想像する事は、難しい。



その3:
ネット環境が3ヶ月ぶりに回復しました。



その4: 独立と革命、近代の輝き

「人は革命の理想に心酔して革命を起こすんじゃない。革命家の輝きに魅せられてそうするのだ」


なんか、こういうふうに名言から始めると、生存みたいですね。



と、それはさておき。結局、最後の勝負は一対一できまる、というとハリウッド映画のしょぼいセオリーみたいだが、人間の本能は、一対一で決まったという幻想がないと、結局はそれを認められないし、心からの決断をできないようである。


これは近代的な独立した人間像を担保しているようで、その実、そうでなければ安心できないという、社会環境の要請に人間の精神が隷属している事でもある。



その5: Vaio Xの安っぽさ

VAIO Xの実物を触ってきたが、どうにもスペック美人。「これを買ったら、おれの人生変わるんじゃないか!」といった幻想が感じられないプロダクトであった。

残念だなー。期待していたのに。

なんだかなー。



その6: レールガンX

まあ、そういった幻想を感じるのは、けっこう難しいのかも。
例えば超電磁砲スキルとかが買えても、人生が良い方向に変わりそうな気がしないものな。