世界の秘密を知るために、一日に何分使ってますか?

絶望は死に至る病、とは1995年くらいに日本を覆っていた気分でしょう。


その後2000年代に入ると、絶望や希望の彼岸というか、そんなことよりも動物化した欲望肯定に忙しくなり、
おそらく2010年代は、動物化した欲望肯定が下部構造的に不可能になって、おそらくは見せかけの高尚さと、見せかけの道徳が強要されるようになるでしょう。



そんなふうに、世の中はすでに変化している。
でも、私自身はまだ90年代の気分――、熱的平衡を迎えた世界に絶望する気分から抜けだせない。




抜け出せなくて、絶望して、それでも、絶望の中で、世界は一皮むけばまだまだ不思議でいっぱいなのだと、ソフィスティケイトされていない、むき出しの、生の、地獄のような劇的な奔流なのだと、それを信じたくて、それを証明しようと、これまた絶望的な試みを始める。



そんな事を繰り返してきた。




そんな繰り返しの果ての、最近の私の恐怖は、絶望の日常に慣れすぎて、それと共存してしまいそうになることだ。
日常がカプセル化されたルーチンで埋め尽くされ、そしてそれに満足してしまう。



そして地獄のような、現象そのものの世界を忘れてしまう





だから、私は鏡を見て、自分に問いかける。



お前は今日何分、世界の秘密を知るために使った?、と。