僕が一番うまく世界に反逆できるんだ! もとい先が見え過ぎて絶望する昨今の絶望生徒と研究に対するエポケー的後退について。

はてなホッテントリに入っていた記事から。

自分が考えることなんて誰かがやってるに決まってるのにそれをさもすごいことのように発表することなんて出来ない、できるわけない。

http://anond.hatelabo.jp/20081001004845

まあ、確かに僕も研究をしながら、
「俺のこの研究しょぼいなあ」と思うときはあって、
それを学会とかで「さもすごいこと」のように発表するのが難しいときはあるので、気分はわかる。




でもまあ。
人生その程度の困難は頻発するわけで、
そんなに深刻に考えなくても良いんじゃないでしょうか。
精神論を言うつもりはないけれど。

なんというか。
抽象的に言えば義務ではなく権利として人生をとらえたいですな(なげやり。そして精神論)




目の前にある研究の前には長い長い歴史があって、その歴史によってくみ上げられた壁を到底超えられない、そんな気がしてしょうがなかった。当たり前のようにそれがあって、その理論は誰でも考えられて、その実験は誰でも出来てしまって、では自分は何をすればよいのか?それがわからなくなってしまった。

別に山の頂上を目指したり、壁を越えたりする必要はないではないですか。
そんな「頂上を目指す」なんて問題設定、おもしろいですか?


色とか、材質とか、あるいは壁の落書きとかを観察するのも面白いし、
壁で切り取られた空を観察しても良いし、そのまわりに誰かいないか探しても良いし、
もしだれかいたら、壁の前でバーベキューでもすれば良いのでは。



ゲームじゃないんだから、攻略本の通りに、
先人が築き上げたルートを正直に反芻して、続きをプレイする義務もないでしょう。




世界創世の秘密を解き明かすのは老後の妄想にとっておいて、
目の前の小さな秘密を解く興奮を楽しんだらいかがです?






そもそも、これだけ研究対象が細分化された世界で、
「自分が考えることなんて誰かがやっているに決まっている」といのは考え過ぎではないのか?


あまりにもしょぼい(ニッチな)問題なので、他の人からは見向きもされていない、というのはありそうだけど。
しかし研究なんてもともと、大多数の人にとってはよく価値のわからないもの(例えるならば、ビールの王冠コレクションみたいなものだ)、なのだから、まあそれで良いと思うけれど。




研究費さえどっかから集められれば。
(研究費欲しい→論文数必要→アクセプトされるためのレトリックが必要。
だけれども、こういうのは純粋に技術的な問題だし。
そもそも世の大半に比べれば、それほど難事という訳でもない。)






とりあえず自戒も込めて。
自分に自信を持つように、訓練してみましょう。
あなたの今やっている研究について、あなたは世界の5指にはいる権威です。たぶん。




それが世界で5指にはいる重大な研究かはともかくとして。