感動のオリンピック

今日で閉幕ですが、全然視ていなかった。

ニュースでちょっとやる結果、たとえば

北島が金とか、柔道の無差別級が金とか、ソフトボールが金とか、
野球が4位?とか、サッカーが惨敗とか・・・(結構知ってるな)

をフォローしてるだけで、生では全然視てない。



試合時間が短いもの(それこそ水泳の短距離とか)は、
録画したやつをニュースで再放送したのを視ているのだけれど、
それだけである。



これはオリンピック競技の大半が、
私が詳しくない競技だから、というのが第一の理由であろう。

(唯一談義できそうなのがサッカーぐらいなものだ)



とはいっても、大半の日本人がそんなものであろうし、
何のかんのいって、オリンピックを視るというのは、
おらがくにの選手を応援する(それがどんな競技であっても)というのが一番おおきな楽しみなのであろう。


しかしこの楽しみ方も、最近の僕はできなくなってきている。
下賎な言い方をすれば、オリンピックが僕にとって全く「役に立たなく」なっているのである。




例えば、確かに北島の泳ぎはすばらしく躍動的なのだけれども、
すごすぎて自分とはレベルが違いすぎるのだ。



だから、視ても、自分には役に立たない。



これは水泳の技術(僕も週3くらいで泳いでいる)という意味では全くなくて、
(当たり前だ)

端的言えば、
「感動をありがとう」とか、そういった感じの
自分のモチベーションをあげる役に立たないのである。






すごすぎて、いまの自分とつながらないのである。
つながらないから、共感できないのだ。






だから例えば、水泳でいったら、(近いと錯覚できる)高校総体とかを視ている方が、
自分のモチベーションがあがる。




オリンピックで北島康介世界新記録を出したレースを視るよりも、
高校総体で秋山夏希が日本記録タイを出したレースを視る方が、

「俺もがんばろう」的なモチベーションがあがるのである。







これは日本人一般の高校野球好きと通じるものがあって、
一面ではひじょうにいやらしいのだが、
まあ、郷愁に堕するのではなく、多少なりとも前向きにすすむ原動力とする、
なんというか「連帯」的な感覚と思えば、ある程度は認められても良いのではないか、
と控えめに思う今日この頃である。


もちろん、こういう「連帯」というのは同じ分野の同世代と会ったときに、
もっとも強く感じられるのだけれど。




研究者で言えば、ノーベル賞、ネイチャー/サイエンスなんていったら、なんか偉い人すぎてダメだけど、
Physical Review とか、国際学会のPDPだったら、すごいけど、なんか勇気づけられる。
みたいな、そんな感じでしょうか。

(いまはしょぼい論文書いてるけど、次こそは、みたいな)




まあ、なんというか、いろいろ書いたけど、
秋山夏希がんばれ!
杉崎可奈がんばれ!

世界中の、いまうんうんうなって練習している奴らがんばれ!

というか、そんな感じである。


僕もがんばるよ!