言葉になった音楽と映像 ― さかなのうた@青電車

アメリカ出張5日目。
ホテルから投稿してます。


サンディエゴはいいところだなあ。
まじめに。
日本に住むのが馬鹿らしくなるくらいです。

僕らは映像で思考する。
      ―― 80年代の名フレーズ


みな知っているかもしれないけれど、
新海誠的な一人スタジオが出ましたね。
さかなのうた、という作品です。

さかなのうた(たぶんyoutubeにある)
作者:http://ao-den.com/


今回は音楽と歌も一人で作っているところが、新しい。



小説が一人でかけるように、
これからはマルチメディア(1990年くらいの流行語かなあ?)も一人で作る時代になるのでしょう。



というのも、映像と音が抽象化したオブジェクトとして扱えるようになったから。



アートというのは、どんなに安っぽくてもつまりは、世界創造のこと。


そして世界創造というのは、結構手間ひまがかかる。



たとえば100人程度の小さな村でも、
村という閉じた小さな世界を作り出し続けるには、
何世代かの伝統と、定期的な祭祀と、幼少時からの教育と、
糧を得るための共同作業と……。
と、具体的ないろいろが必要なわけです。

そういった作業の積み重ねとして
村人にとっての世界が創造されていく。



人類は太古の昔に具体的な共同体験だけではなく、
抽象的な「文字」というテクノロジーを使うことで、
世界創造を飛躍的に拡大しました(聖書とか)



近代に至っては、高度に抽象的な言葉を操ることで、
個人で世界創造が可能になりさえしたのです。




20世紀の終わりには、
ラジオとレコードとテープとCDと、
テレビと映画とビデオカメラが、
世界創造をよりインスタントにしました。


しかし、映像も音も、
まだ文字ほどは抽象的ではありませんでした。



それらはまだ体験を転写したものであって、
抽象から生まれた抽象ではなかったのです。



そしていま、
われわれはコンピュータの計算能力を使って、
画像と音楽を抽象化することに成功しつつあります。


おそらくはその試みは1984年ごろから始まり、
ようやく最近達成されつつあるのです。





もう、音楽も映像も、
作成するのに肉体的な即興性や天性のカンや、
もしくは大勢との共同体験は必要なくなり
抽象化されたオブジェクトの配置と設計で行えるようになりました。




現実の映像や、現実の演奏を写し取らなくてもよい。




オブジェクトの抽象的な配置順・組み合わせから、
直接、音楽や映像が生成できるようになったのです。



言葉と同じように。







これは、控えめにいっても
興味深い局面といえるでしょう。

いまの前後10から20年ぐらいは、
歴史的に見て、じつは結構面白い時代なのではないでしょうか。







たぶんね。