フルメタ1位。あるいは幻視同盟の終焉


うーむ。
昨日のシャンパン。。。ではなくスパークリングワインのせいで、
頭が痛い。。。

SWは好きなのだけれど、
どうにも悪酔いするなあ。
カクテルも好きなのだけれど、悪酔いするし。

ちなみに翌日に残らないのは、
梅酒のロック。

とはいってもクリスマスパーティで、
梅酒では興が乗らないものである。



閑話休題




昨日、本屋で今年のライトノベル・ランキング本を読んだ。

一位がフルメタルパニックだった。



一瞬、2008版ではなく、1998版なのではないかと
疑ったが、真実2008版であった。



今回はこれについてツラツラと。



(こういうときに、
「興味のない方は、以下を読みとばしてくださって結構です」
という掲示がされるときがある。
しかし、読者はそんな許可をされなくても、
好きなときに読みとばす事ができる(権利的にも、物理的にも)のだから、
よく意味の分からない掲示である。

閑話休題




一位がフルメタなのは、
まあ納得できるところもある。
今年、久々の新刊がでたし、その内容も、
鬱屈、ひらめき、逆転、ロマンス、燃える魂、男の友情と
一級品であったので。


しかし、それだけでもって一位というのは、
いまいち納得しきれない、というのも事実である。



この「フルメタ1位」の理由として一つ考えられるのは、
高齢化である。




詳細に言うと、二つの高齢化である。




一つはライトノベル読者層全体の高年齢化。

実際のところ、ライトノベルにお金を使う層というのは、
もはや中高生ではなく、
フルメタルパニックが始まったときに中高生だった」
20代に移行しているのではないだろうか?





もう一つは、集計チャネルが高齢者向けになっている、という意味の高齢化である。

今回の一般投票は、インターネットで行われたらしい。
しかし現在の日本のインターネットは
(少なくとも)大学生以上を対象としたメディアであり、
中高生が主役のメディアではない。

(中高生は、PCによるザ・インターネットでなく、
クローズドな携帯ネットワークを使う)



日経新聞を集計チャネルにしたら日経新聞らしい今年のニューストップ10が、
東スポを集計チャネルにしたら、東スポらしいトップ10が、
それぞれ現れるように、
インターネットという集計チャネルを通すことで、
フルメタ世代」の意見が増幅された可能性は十分にある。







さて、このような統計学上の可能性を論じておいてなんだが、
「本当に」フルメタが一位であるなら、
そこには、ある種の時代の変化を感じ取れる様にも思う。



それはつまり、
「目に見えないもの」から「目に見えるもの」への変化である。





田中芳樹とソノラマあたりが伏流となり、
ロードスで発生し、
スレイヤーズで拡大して、
ブギーポップで変容した、「ライトノベル」。



もう10年になるが、
ブギーポップがでたとき、
その「不気味なもの」は、はっきりと時代の空気だった。


抽象化を好む、夢想的で、
にぎやかな虚無主義とでも言うべきか。


Airやなんかの、鍵系も、あのころが一番隆盛していたように思う。


ここでは、
あのころの作品群を代表させて「ブギーポップ」を取り上げよう。




端的に言うと、
別に「ブギーポップ」の文章が格段に優れていた訳でも、
挿絵がすごく奇麗だった訳でも、
プロットが巧みだった訳でもない

(もちろん、どれも皆、並以上の水準であったが)


しかし、あの作品全体として、
その頃の中高生の「気分」を的確に表現していたように思う。


すくなくとも、
そう幻視させるだけの力が、あの一冊の文庫本というパッケージにはあった。




だから、何というべきか。
半分は、プロットを楽しむため、
残りの半分は、目に見えない「気分」を買っていた、
そんな感じがある。


それはつまり、本を読み、内容を楽しむだけでなく、
その本を買って、読むという行為自体に意味を見る、
思春期的なナルシスティックがあった。


(それが古典や学術書でなく、
それこそ「ポップ」なB級品であるということが、
よりその気分を高めていたように思う)






翻ってフルメタ、もしくは何でも良いのだが、
狼と香辛料とか。
とある魔術の禁書目録とか。



これらはエンターテイメント作品として一級品で、
楽しく、悲しく、喜ばしく読める。



しかし、「気分」を代表しているかと言われると、
いささか心もとない。


これらの面白さというのは、
マクロスでミサイルをかわすシーンがやたらとかっこ良い」
という面白さではないのだろうか。


あるいは、
らきすたのOPが良い、とか。




可視化された、目に見える面白さ。
分析的に評価できる面白さ。




プロットが良い。
キャラ立てが良い。
キャラクタ配置が計算されている。

京アニの作画が良い、とかと同ベクトルである。



実のところ、
こちらの方がオタク的には王道の楽しみ方な気もする。

目に見える面白さ、を細かく追求していく、
枝葉末節の面白さを楽しむ、というのがオタクの本質であったようにも思える。




それが、90年代後半から00年代前半にかけて、
変質した。




「気分」を作品に求め、
作品と自分を同一視する鑑賞方法。
それが普及したようにも思えたし、



チープな文章と、
チープな挿絵に



それでもなんとなく、
気分と自分を幻視する、幻視する事ができるかもしれない、
そんな期待感があった。






しかし結局、
そのようなムーブメントは一時で過ぎ去り、
今は「王道」の楽しみ方が、
また主流に戻ってきている。



そんな感覚を受けた。





それは不況がようやく終わりつつある社会情勢の変化なのかもしれないし、
高齢化しつつあるオタクが、ようやく思春期を脱したのかもしれないし、
幻視することの虚無感に耐えられなくなった後退なのかもしれないし、
結局、一時の変なブームが終演しただけなのかもしれない。






ただ、ひとついえることは、
風向きが変わった、変曲点にいるのだな、
と私が感じた。


そういうことである。