続・高校生の見学。Google的不安たち。

さて、前回(id:taky:20050728)は「現代日本では未決定性指向が高い。これはなぜか?」というところで終わったのだった。

この疑問に簡潔に答えるのは難しい。というのも、「この疑問に簡潔に答える」システムの不在こそが、未決定性指向の源泉であろうからだ。

簡単に現状を追認すると、現在はポストモダンの世界である(と言われる)。ポストモダンとは狭義には構造主義以後のフランス現代思想をさすが、まあ、ぶっちゃけ簡単に言ってしまえば、「大きな物語」――共産主義世界同時革命とか、あるいは高度経済成長とか、そんな感じの――が終焉し、もはや個々の持つ小さな物語を、他人はわかってくれないことを自覚しながら、それでも信じるしかない、そんな世界観のこと。

とはいいつつも、実際のところは70-80年代までは、この「『大きな物語など無いんだ』という大きな物語」=ポストモダニズムが、逆説的ながらも、世界を――関連の無い個々の日常と日常をつなぐ経路を――担ってきたといえるだろう。しかし、この「大きな物語としてのポストモダニズム」も1996年のソーカル事件ソーカル事件 - Wikipedia)でほとんど死に絶えた。ポストモダニズム(というかフランス現代思想群)自体は、いまだ言説としては有効だが、大きな物語――権威、あるいは無条件的な知的意匠・衣装としてのフランス現代思想はここで壊滅している。

90年代以降というのは、大きな物語の代用品としての、括弧つきの「ポストモダン」すら木っ端微塵にされた世界といえるだろう。


さて、このような本当の意味でのポストモダン社会と、未決定性との間にはどんな関係があるのだろうか。


表題の「Google的不安たち」というのは、この関係を説明するひとつの思い付きである。
まあ、言うまでも無いが、デリダの「郵便的」のパクリ。ところで理系人にとって、デリダは鬼門?なのだ。自然科学の専門教育を受けたものなら、差延(簡単に言えば微分のこと)の胡散臭さに驚愕するだろう。

まあ、それはともかく、表題にあげておいてなんだが、眠くなってきたので、続きはまた後で書こう。

(この項続く)
(忘れないように。思い付きを素描)

  • このはてなダイアリーやblog、携帯電話やメール、牽強付会にいくなればハイパーテキストなどの90年代後半に花開いた情報技術は、「個々人の日常をつなぐ経路」(元ネタをばらすと、ラカンの現象界を意識してこういっているのだが)をエンジニアリング的に代替したものといえるかもしれない。このエンジニアリング――自動的なもの――は、どのような効果を及ぼすのか?
  • 巷で流行った「セカイ系」は、この流れを意識的に取り入れたもの。「リアリティが皆無」と批判されるセカイ系だが、実のところ、現実に対応したリアリティを生み出す苦肉の策として、日常(想像界)と世界の終わり(現実界)を、必要最小限のギミック(最終兵器な彼女とか、そんなの;現象界)でつないだのだ。この現象界部(大きな物語)が肥大だと、逆にリアリティが無くなる。