エブリディ・サンシャイン

四、五尋はある超広帯域光ファイバの束からは、気持ちの良い陽光が照射されていた。近くの端末で確認すると、リオデジャネイロ、と帰ってくる。このリオデジャネイロ光で日向ぼっこをするのが、僕の趣味であった。僕こと西園寺ペトロニウス・ナインスサードの趣味であった、といっても良い。この言いまわしは格好よい、とサードは思考送信する。フルネームを名乗るからだろうか。最近、人からフルネームを呼ばれたのは、親父が死んだときだった。親父――西園寺ペトロニウス・ナインスセカンド(通称ナイン)が死んだとき(取り立てて劇的でなく、平穏なものであった。そういえば、「死はいつも平穏なものだ」というのは親父の口癖でもあったのだ)、村の長老からフルネームを呼ばれ……、そのあと「ナイン」の名を継いだのだ。それから、長老たちはさかんに僕のことを「ナイン」と呼ぶようになったが、しかし、今でもそれは親父の名前のように思えてならない。昔なじみがポロリと「サード」とこぼすと、久しぶりに自分にあった気分になる。「よう、ひさしぶり、僕」といった感じだ。


そういえば、僕を「サード」と呼ぶ昔なじみの一人――こいつも今では「ハードリィ」なんて名前になっているが、仲間内の通称は「古文書マニアのフォース」――によると、この「ナイン」や「ナインス」というのは古語の誤用らしい。あいつの言っていたことを再生すると、こんなのだ。


「そ、それはね、サード。きょ、極度のね、単純化というか、面倒くさがりが生み出したというか、あ、あのね、こんなことを言って、お、おれが、古語至上主義者だと、思わないでね、ことばは、ね、時とともに変化するしね、むしろ、さ、変化が遅いくらいだよ、と、ね、おれは、思うんだけどね、たぶん、おれたちのね、会話が、文字によっているからで、音声によっていないから変化が遅いんじゃないかな、とね、思うわけなんだけど、あー、うん、ナインスはね、本当は、ナイティ、か、ナイディって、言うんだ、でも、いまじゃ、これは、女の子にしか使われない、何でだろうね、お、おれのね、ハーディって言うの名前も、本当はね、違うんだ」


確かに。僕らは文字で会話するから、こういったときには便利かもしれない。「音」を使う会話は、昔、「映画」で体験したが、不便なものだった。一度発した言葉はすぐに消え去り、あとで「言った」「言わない」の口論になるのだ。確かそういうストーリーの映画だった。もっとも、口論の言葉もすぐに消え去るので、最後には仲直り、という結末だったが。とはいっても、奇妙な習慣を固持していた大昔のマスター達も、実用と趣味は両立させていたようだ。発掘された映画の多くは、画面下に文字が表示される仕様になっているらしい。

memo:ペトロニウス=猫、のつもり。つづく?