キャットライクステイト#19

午後、ソファに寝そべりながら、ボクは簡単な量子力学の本を読み返していた。そこではエルヴィン・シュレーディンガー(物理学者。そしておそらく猫嫌い)が、「量子力学的重ねあわせでは生きた猫と死んだ猫が云々」と書いていた。


量子力学では状態は観測するまでは未決定で、それまでは確率的な重ね合わせ状態で表示される。つまり、箱の中で閉じ込めた猫(この時点ですでに犯罪だが)を外から見ている人間(つまりボクだ)にとって、中の猫は生きている状態と死んでいる状態の重ねあわせ……、らしい。不思議なようにも、当たり前にも、どちらでも取れる話だ。しかも、その生きている状態と死んでいる状態(波動関数だって)は互いに干渉したりするらしい。細かい式や用語(ハイゼンベルグとか、ケットとか、完備性とか)が、その後につらつらと書いてあったが、ボクは物理学科ではないから、そこまで読む気になれなかった。せいぜい、グレッグ・イーガンの「宇宙消失」を思い出したくらいだ。しかも、この小説すら途中までしか読んでいなかった気もする。


ボクは量子論の教科書をマガジンラックに丁寧にしまって、グアマテラ産のコーヒー豆を挽き、ドリッパーで丁寧に入れた。そして、ひと粒300円もするチョコレートといっしょに、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。そのあいだ中、猫について考えてみた。そうしてボクは、実のところ猫についてすら良く知らないことに気づいた。生きた猫のことも、死んだ猫のことも。これではその重ね合わせなど、わかりようもない。だからボクは、生きた猫と死んだ猫を探しに、街に出ることにした。