本日一報:風立ちぬ

昨日、テレビで宮崎駿風立ちぬ』が放送されていたっぽい。この宮崎駿の遺言じみた映画、僕は結構好きで、見返すと、たいてい涙ぐんでしまう。それはきっと、あの映画で描かれている「美しさへの憧れ」が、僕の中にも僅かながら流れているからであろう。例えば、世界のすべてについての美しい理論(ToE)がこの手に掴めたならば、その瞬間に死ぬのはまったく惜しくはない、とごく自然に思えてしまう感性。人間の感性がどうやって形作られるのか、それは良くわからない。きっと半分が初期条件、半分が成長過程のバイアス、もしくはほとんど全部が乱数による偶然なのかもしれない。でも、ある程度成長した後の人間を観察すると、各々の人間が、各自の起源衝動としか言いようのないなにかを抱えているように見える。この映画は、宮崎駿の起源衝動と少しでも重なるところのある人間(たぶん、役者や、漫画書きや、物理屋なんかに多いのじゃあないだろうか)にとっては、文字通り刺さる映画だ。


あの映画には印象的なシーンがいくつもある。例えば、堀越が同僚と自主研究会を開いて白熱しているのを上司がチラと見て一言ポツリともらすシーン。あそこは、感動する。それは多分、エンジニアとしての自分の理想を体現しているからだろう。そしてまた、肺病を患う恋人の前で煙草を吸って仕事をするシーン。ほとんど教科書的なまでにこの映画のテーマを示している。そして最後、二郎が死んだ恋人の幻影に「貴方は生きて」と言われた後、カプローニが「君は生きねばならん。が、その前に、寄っていかないか?良いワインがあるんだ」と語るシーン。なんたる白眉! ほとんど何でもないこの台詞だけれど、恋人と戦闘機に呪われた二郎と、そして映画をここまで見てきた観客が、この一言で、僅かながら救われるのだ。「生きて」と呪われるよりも、軽く洒脱に、そしてより深く。



「創造的な人生の持ち時間は10年だ。設計家も芸術家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい」これもまた、劇中のカプローニの台詞。そして、こちらは残酷な台詞。そこでふと、僕がまだ本当に若かった頃、周りの人間が色々悩んで、僕も悩んでいたことを思いだす。ちょうど、大学か大学院に居た頃の話だ。世にいろいろな観点があるが、多少なりとも美しい学問(物理学とか、数学とか)を修めようとすると、この社会では基本的に就職先がない。いきなり下世話な話だが... 一般企業は取りたがらないし、研究職は任期制で不安定だし、大学のパーマネントの職は少子化の影響で右肩下がりだ。そこでみな、いろいろ悩む。美しさか、喰うことか。そんなとき、ふと思いついた解法があり、当時の私には、それはもの凄く秀逸で、冴えたやり方に感じられた。なに、簡単なことだ。10年、齢30歳まで、美しい学問をやり、なにか素晴らしいモノを生み出せたら、まあ喰うには困らぬであろう。もし、それが出来なかったら、そのときはそこで死ねば良いだけだ、と。実に甘美な考えであった。実際のところ... 甘美な美しさはすぐに終わり、しかし終わった後ですら、人は生きることを試みなければならないのだけれど。Le vent se lève, il faut tenter de vivre.