まどかマギカと西尾維新

流行に乗って、一つ小ネタを書いてみよう。


本日私が取り上げたいのは、一つの比較である。


それすなわち、「まどかマギカ」と「化物語(に代表される西尾維新作品)」の比較である。


この二つは、表面的には類似性を持っている。どちらも2000年代的であるし、ストーリーにおいては人が死ぬし、アニメ化はシャフトである。


ただ、その中身はひどく対照的だ。「まどかマギカ」は一言でいって、唯物主義であり、構造に支配された人物が織りなす物語である。一方「化物語」は、関係主義であり、孤立した人物が織りなす物語である。


まどマギにおいて、世界は「絶対の法則で動く機械的世界」として描写されている。そこでは、登場人物の「想い」とか「悲しみ」とかは、世界の運行と全く関係がない。僕らの上には天国なんてなく、空しかない。下には地獄なんてなく、地面があるだけ。QBや魔法少女というファンタジーな要素も、そういった法則のもとで動いている唯物的存在である。だからきっと、この物語は唯物的に進み、そして最終的にそういった世界を受け入れる、という乾いた結末があるのだろう。たぶん。


そしてまた、登場人物はそういった世界の構造に規定されている。まどマギにおいては、登場人物は世界(一般的な魔法少女アニメ的世界)の要請する「常識」「パターン」に従順である。だから、ジュエルシードの秘密が明かされたとき、当然のように反発し、絶望する。これは我々の世界の一般的な反応に近いので、皆、同情する。



次に「化物語」について考えよう。西尾維新作品の特徴は、その世界が関係性で構築されていることである。特に化物語ではそれが顕著で、主人公とその他の登場人物の関係性こそが、世界そのものである。故に彼らの心持ち一つで、世界は劇的に色を変える。それこそ、物理法則さえねじ曲がる。非常にご都合主義なセカイでもあるのだが、それがこの作品のテーマ(怪異)でもあるのだから、まあ仕方がない。


そして化物語においては、登場人物は非常に孤立的である。そして面白いことに、関係性がすべての世界観であるにもかかわらず(あるいはそれ故に)登場人物は世界の構造が要請する役割から自由である。彼らは徹底的に利己的で、打算的で、他人のためには動かないし、もし動いたらそれは必ず不幸な結果を生む。こういった人物造形は、この作家が嫌われる一因である。と同時に、非常に現代的な面でもありえる。もし、化物語の主人公が、魂を別容器に封入され「ひとでなし」になったら、どうだろうか。彼はそれをとても残念に思い、そして受け入れるだろう。彼は、関係性の世界に住んでいるが、しかし世界の要請する「常識」からは自由なのである。むしろ「死ににくくて便利」というQBと同様の感想さえ持つかもしれない。



このように、まどかマギカ化物語は、とても対照的だ。我々は、これをどう評価すべきだろうか?


構造から自由な利己主義的人間にリアリティがある、という伝統的人間からすれば堪え難い主張が退潮し、従来の構造に支配された人間(常識的で「利他主義的」人間)が復権していると、悦ぶべきだろうか。


それとも、魔法少女という強固な先人遺物と、蒼樹うめのいかにもなキャラデザというアクロバテックなトリックを使わなければ、もはや構造に支配された人間を書くことすら出来ない、という事実に驚嘆すべきだろうか。