ちゃんとした本って、何だろう?
昭和「趣味は読書って言ってたけど、どんなの読むの?」
平成「ライトノベルとかです」
昭和「ああ、今時の子だねぇ」
平成「でも少しは、ちゃんとした本も読んでますよ。セカチューとか」
昭和「……」
言うまでもなく、ハーラン・エリスンではありませんでした。
僕らは何となく、セカチューが「ちゃんとした本」でないように感じる。
もちろん、涼宮ハルヒも、戯言も、彩雲国も、キノの旅も、フルメタも、らっきょうもシャナも禁書目録も狼と香辛料もとらドラも、「ちゃんとした本」には入らないだろう。そう感じる。
でも、「ちゃんとした本」ってなんだ?
定義できるのか?
例えば村上春樹はどうだ?
なんとなく、セカチューよりはちゃんとした本に思えなくもないが、あれだってでた当初は、大して変わらない扱いだったような。
村上春樹がいいなら、じゃあ、保坂和志はOKなのか? 本多孝好は?
実際は、その本を見て、読めば、「ちゃんとした本」かどうかは、何となく判定できる。
イギリス人が好きな、経験論、帰納法ってやつだ。
では、僕らは、その「ちゃんとした本」判定回路をどこで手に入れたのか?
まさか生得のア・プリオリな本能ではあるまい。
きっと、幼少時の教育と、世間での評価だろう。
幼少時の教育で使われる資料も、(親が特定分野に異常な愛情を抱いていない限り)世間での評価に基づいて選ばれるだろうから、それはつまり「世間での評価」が「ちゃんとした本」の判定に大きく影響しているという事だろう。
さて、言うまでもない事だが、新人が出したばかりの本には、まだ何の世間的評判もない。
評価を得る第一の関門は、売れる事である。さもなくば、彼らは返品され、裁断機にかけられる。
第一の関門を突破し、「その本を知っている人」がある程度に達したら、次は第二の関門、読者がその本を語りたくなったか、である。
本を読んで、何かを語りたくなったら、人はそれについて語る。人は欲望に忠実である。口で、ネットで、評論で。
それらの語りが重積することで、評判が固まっていく。
そして第三の関門。本を読み、語りたくなった読者が、今度は書きたくなるか、あるいは、行動したくなるか。
読者はもはや作品について語る事では満足できず、その作品に基づいて、自ら本を書き始める。
あるいはもっと過激に、作品に基づいて、自ら行動を始める。
そして、彼らの作品や行動が、次の評判を呼べば、言うまでもない。
あとは幾何級数的な、評判の連鎖、一冊の「ちゃんとした本」の完成である。
そういった意味で言えば、多くのフォロワーを生み出した村上春樹は、今では十分に「ちゃんとした本」であろう。
カントだって、フーコーだって、多くのフォロワーと評論がある故に、ちゃんとした本なのである。
ケインズもマルクスも、トマス・ペインも、彼らの著作によって行動を開始した人々がいたから、ちゃんとした本である。
そう考えていくと、「この本」が「ちゃんとした本」になるには、通常、出版されてから10年か20年以上は必要だろう。
もっとも世の中には新陳代謝が激しい業界もあって、例えばポップス音楽とか、漫画、ライトノベルの業界なんかはそうだろう。
「ブギーポップ」なんかは、出版されてから数年で多数のフォロワーを生み出して、プチ「ちゃんとした本」になっているんじゃないかな、と思う。「プチ」とつけたのは、まあ、ブギー自身やそのフォロワーがライトノベルの中という非常に小さな市場の中だけにとどまっていて、そこに接点のない人々にとっては、なきも同然だからである。でもまあ、規模は極小でも、反応としては似たようなものであろう。
つれづれ書いているうちに、話が発散してきたが。。。
セカチューも、「ちゃんとした本」になる可能性はあるという事である。たくさん売れたし。
あとはセカチューに強く心を動かされた、人々が、新しい売れる作品を多数再生産すれば良いのである。
評価はそのあとまで、留保しておこう。
あるいは、飛躍して言い切るのなら。
その話を読んだ誰も、まだ行動していないうちに、その本をちゃんとした本と言い切り、行動してしまう。
それは端から見ると痛々しいかもしれないが、少なくともリスクをとった生き方ではあり、リスクをとらない限り世界は変えられないのであろう。
これが若さか。。。
Fateは文学
CLANNADは人生
―― あるネット・ゴーストの囁き
一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に、ただ折り合いをつけてしまって、あるべき姿のために戦わないことだ。
―― ミゲル・デ・セルバンテス