蝉とオートマティズム

ものを考えるときに落ちいりがちなものとして、あらかじめ示された思考をたどる、Aが入力されたらA’を出力するといった、関数的な、自動化された、オートマティズムな思考(ともいえないが、応答)があり、オートマティズムというと、ついトルシエベンゲルを思い出してしまうのだが、あんな感じで、この思考の特性は、とにかく応答が速いことなのだが、しかし、実は全然考えてないのではないのか、というか、もちろん全然考えてなくて、典型的なつまらないギャグや、消費税→反対、みたいなもので、責難は成事にあらず、だが、こういった応答をしてしまう確率は、実は非常に高いのであって、つまりは、応答に高速性があることが現実世界において非常に有用であるからなのだが、これは、こういった高速な反射応答をする人間が多数集まることで複雑な問題に対してクオリティの高い選択をするという戦略かもしれないと考えつつ、自動的な思考を用いるときは、自分がそれを行っていることに常に自覚的でなくてはならないともおもうのだが、つまり、自動化というかカプセル化された思考応答はつねにモジュールであると認識していて、その逆思考も仮想的にでもいいから励起しておくべきで、つまりは一人の中で多数の反射応答を励起してコレクティブモードを観測しようという試みだが、実際のところ、つまりはプラグマティックには、私の頭の中ではせいぜい10人くらいを保持していて、その中の3人くらいを同時励起するという、ファミコンの同時発色数より低いことしかできないので、コレクティブモードで考えるのはなかなか難しく、となると、自動的な反応に注意して、それを除去するか、クラスをひとつあげてみるという方向に進むわけだが、この作業の大半は、基本的には偏見というかイドラというかを除去しようと勤める試みであって、つまりはAとナルAをつねにクーパー対のようにカップリングさせる行為なのだが、これは思考速度が低下しがちなほうほうであり、まあ、そういうことだ。

……つづきは、みんなもがんばってかんがえよう(なげやり)