大学院の講義の位置付けについて。個人的メモ

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[魔法使いな日々] - 2005/02a Diaryにたいして。

大学院の講義の主たる狙いは、

  • 学部レベルと最先端の間の受け渡し

にある。自らが所属する研究室の専門については、たいていの学生はM2-D1程度の時期に、その世界で有数のレベル*1になっているはずだ。限定された専門分野では、競争者の数自体が少ない。しかし、そのような狭い意味での専門知識だけでは、サイエンティストとしての後の広がりが期待できないし、そもそも「人」*2として、未整備なままである。日本の「大学」*3は専門技能教育のほかに、リベラルアーツの教育機能も内包しているので、こちらを無視することは出来ない。

この要請を満たすために、大学院の講義は

  • 学部卒業程度の素養の学生を、他分野の先端付近まで、3倍速で持っていく

ことが目標になるだろう。講義のレベルとしては、「レヴュー*4を読めば載っているが、教科書には載っていない」程度が基準になるはずだ。一般の大学院生は、例えば物理の全分野(宇宙論から、半導体物性まで!)のフィジカルレヴューを読む時間も能力もない。ましてや化学や生物や情報理論社会学経営学の全レヴューを読めるわけがない。そもそも、なにが重要な論文で、なにがアーティファクトな論文か、その判断すらつかず*5トリビアルな事柄に時間を浪費してしまうであろう。学生の、そういった明らかに非生産的な無駄を排するのが大学院講義の機能であろう。

……というのが、私の意見。で、それをもとに[魔法使いな日々] - 2005/02a Diaryを批判してみると、彼の脳裏にある大学院生は、研究室の狭い専門以外はまったく学ばないようだ。もし、本気で、リンク先記事のように思っているのであれば、それは大学院生を狭い専門に押し込め、ひとりのサイエンティストの将来性を大きく狭め、ひいては大学の教育機関としての存在意義を貶めるだけの意見であるし、もし諧謔で言っているならば、事態を改善しようとする行動に対する妨害でしかない。*6そして、もっとも、感情的な反論としては、若者はそういった年寄りの、「昔は〜だった」という意見に辟易しているということ。グローブがあるのに、素手で野球をするのが健全なことだろうか。

*1:別にトップというわけではない。しかし、〜の…のアレのその部分だったら、〇〇さんに聞いてみよう。とは言われるはずです。

*2:構造主義以前の近代西洋哲学が志向していた、理想上の、目標としての「人間」のこと

*3:学部のほかに大学院修士課程も含むのが適当であろう。というのも、現代の教育は大学までで基礎的専門科目が修了できた19世紀とは異なるからである。基礎的科目を教え込むだけで、修士の1年程度まではかかる。物理学に例をとると、19世紀までの古典力学電磁気学・熱統計力学に加えて、現代の学生は物理学を理解する基本科目として、量子力学、一般・特殊相対論、相対論的量子力学、場の量子論も学ばねばならない。

*4:レターではない

*5:判断がつくのなら、もうその論文を読む必要はほとんどない

*6:実際には、大学院で、理想的な講義が行われる確率は、せいぜい20-30%といったところだろう。あとは論文でも読んでやり過ごしたほうがよさそうというのも事実である。しかし、今の議論はそういったやり過ごし方を提案することであっただろうか? それは初歩的なディスカッション用語で言うところの「狐の尻尾」であり、主題ではない。その議論がしたいのなら、私は、授業を受けている間にPSPNDSもやったらどうかと提案するだろう。