天気

日記では日付の後、天気を書くことが多い。しかしネットワーク上の日記での天気の記録に意味はあるのだろうか。東京で書いた日記を沖縄で読むかも知れぬのに。ならば、ネットワーク上にも天気があったらよい、と思考。

何故そう思ったのだろう?現実に近づこうという意思か。しかしそれならば、我々は昼を夜に変え、地下街に住み、空調で温度を一定に保ち、天候、すなわち外部要因を平準化しようと努力し実際そうなっている。ならば、「天候」などないほうが「現実」に近いのではないか?

それでも外部要因を……より正確に言うならば制御可能な外部要因であろうが、これを何故もとめるのか。生物の個体性質かと妄想。すなわち生物が単体から個体に分かれた理由として生存の有利さがあったと想像。この有利さを発揮するには個体が少しづつ差異化されている必要があると推測。けれどもまったく異なっていては単体時の形質を保存できないと推測。このバランスが制御可能な外部要因を望む理由か。すなわち他の個体と異なりたい、けれども決定的には異なりたくない、なってはいけないという拘束条件。この欲求を文明および社会に応用することは容易。

しかし生物が何故、そのように個体に分かれたのか。別の側面から思考するに環境その他を含む場がパラメータとして時間と空間をあらわに含むからと推測。パラメータとはすなわち演算子形式で表されていない単なる実数である。パラメータをセグメントに分割し、空間パラメータには個体を、時間パラメータには世代を割り当てたのではと推測。逆にいえばパラメータ近接領域に属するものは相互作用など繰り込めば準個体としとて一まとめにして簡略化できる。それを社会やらなんやらとみなすことも可能か。相互作用としては言葉とか文化とか親子関係とかいろいろあり。

……というような思考の垂れ流しを天気から思いついた。しかし思考では一瞬だが、文字に直すと結構面倒。