なぎ、ふつうということをどうおもう?

世の中には、普通の人生が嫌いだ、という人がいる。

嫌いだ、というのは言い過ぎかもしれない。単純に、それに価値をみいだせない人がいる、というだけの話だ。

 

まあそういう人だって、山奥の塔に隠遁しているわけではないから、大抵は、騙し騙し普通の人生を送っている。

 

しかし、ふとした時に、そういったごまかし自体が、あまりもくだらなく思え、どうでもよくなってしまうときがある。

 

 

その、どうでもよくなった瞬間の、破れかぶれさの清涼さは、気持ちが良い。癖になりそうなくらいだ。

 

 

結局、決断の深刻さと浮薄さは、見かけだけのものだ。

 

どちらにしても、決定の質には影響しない。

 

もちろん、物語の最後になっても、どの問題も解決されておらず、物語自体は全く同じなのかもしれません。結局のところ、研究というのは自己治療の手段ではなく、地味で不確実な自己治療の試みに過ぎないのですから。

 

しかし、正直に語る、ということは恐ろしく難しい。素直になろうとすればするほど、私の言葉は深く沈んでいく。「私たちの思考は言葉になるのではなく、言葉の連続が思考になる」という脳科学的に正しいと思われる事実を述べることはしません。生成過程がどうであれ、ここで語られることは、今の時点で私ができることの中では最高のものだと思います。

 

とはいえ、全てがうまくいけば、数年後、数十年後、あるいは人類が滅んだ後、自分が贖罪されていることに、私は気づくかもしれません。その未来の言葉は、時間を遡り全てのものを贖うことができるでしょう。それが言葉の魔力なのです。

 

自由律俳句::模写

「完璧な仕事なんてものは存在しない。完璧な絶望がないのと同じように」

 

大学生の頃、偶然出会った研究者は私を見てそういった。「だから、どうしたらいいかわからない」

 

その真意を理解したのはずっと後になってからだったが、しばらくの間、これを少なくともある種の慰めとして受け取ることはできた。完璧な仕事など存在しない。

 

それでも、何かを仕事としてこなし、生計を立てるということになると、いつも絶望的な気持ちになる。それは、自分に想像できる仕事の領域が非常に限られていたからだ。例えば、像の素材をどうにかすることができても、仏像をどうにかすることはできない。


そんな不安を抱えて14年を過ごした。14年、長い時間だ。

 

もちろん、すべての経験から何かを学ぼうとし続けていれば、生きることは苦痛ばかりではない。これは単なる総評として。

 

私は23歳ちょっとの頃から、そのように生きようとしてきた。そして、そのような生き方をするには、それなりの技術が必要である。おかげで、何度も何度も人に怒鳴られ、利用され、誤解されたりした。同時に不思議な体験もたくさんしてきました。様々な出来事が私の上を通り過ぎ、リアルト橋の石畳のように、多くの人の足が私を踏みつけ、磨いてきた。