2015年振り返り

こんばんは。すこしやっつけ気味&実時間は既に2016年ですが、2015年の振替りなどを。


  • 2015年1月
    • 映画ベイマックス見てた。
    • パリでテロが起こる(風刺画に対する)このテロに対する反応で「テロも酷いし許せないが、風刺画もやり過ぎだったのでは」みたいな意見が、決して少なくない数あった。日本においては、自由というのはほとんど価値を認められていないのを再認識したものだ。
    • 大学生になるので、家に机を買った。
  • 2015年2月
    • 記憶が曖昧…… たぶん仕事してたり、飲みにいったり。科学について考えたりしてた。「欧州が『テクノロジーに対するサイエンスの優位性』を指向する世界なのに対して、アメリカは『サイエンスに対するテクノロジーの優位性』を示す世界。まったく違うと思う」など。

  • 2015年3月
    • アメリカ行ってたり、大学に行く準備してたり。大学の学費と入学金、高いね...
  • 2015年4月
    • この月から大学入学。入学式、なかなか面白かった。
    • 映画「ゴチックメイド」観た。FSSについては、もはやこういうモノと思うしかないですね。
    • あと、金沢旅行したりとか、バーベキューしたりとか。
  • 2015年5月
    • 九州旅行してた。
  • 2015年6月
    • 上海に旅行いってた。中国、勢いあるよね(いまさらな感想だけど)
  • 2015年7月
    • うーん。記憶が曖昧。暑くて死んでたのかな……
  • 2015年8月
    • ここも多分死んでた? 暑かったので。
    • あ、そうだ。論文の締め切り前で、追加実験で死んでたんだった...
  • 2015年9月
    • 心の中に「廃墟に佇む白いワンピースを着た少女」を宿してる系のオタクの皆さん(挨拶)。こんばんは。
    • 会社で「状況は最悪で救いようがない」と素直に言えないときに「控えめにいって状況はあまりよくありません」と言っているのだけど、通じたことがない。
  • 2015年10月
    • この国では、他人に迷惑をかけないことが強迫観念になっていて、そのせいで他人の逸脱に対して大変容赦がない。端的に言って生き辛い社会である。
    • 「学問を次の次元に進める仕事、真の天才を必要とする仕事」に関わりたい物だ。たとえ自分の役割が、天才の為の単なる準備であっても、それはきっと素晴らしいことだろう。
  • 2015年11月
    • パリでテロ事件があった。まだ21世紀は15年しか過ぎていないのに、大事件が多すぎる。きっと、20世紀のWW1の時も、皆同じように思ったのだろうけれど。いま僕はパリから数千キロ離れたところにいる。遠いところだ。にも関わらず、ダマスカスやレバノンで似たことが起こったというニュースより、確実に強い切迫感と身に迫った危機感を持って、パリからのニュースを聞いている。隣人の話として感じている。不思議な話だけれど、現実にそうなのだ。
    • (ちなみに、この事件が起こってから最初の半日、日本の伝統メディアは大変に鈍感だった。それは多分、現地の人員の少なさと、本社が休日だったため意思決定が行えなかったことのよるものだろうけれど、日本の縮図を見るようではあった)
    • 例えばパリのテロと同じ事件が金曜日の東京で起こったとして、僕は月曜日に会社に出勤するだろうか?馬鹿っぽいけど、もし金曜日の夜に新宿のレストランが銃撃され、原宿のライブハウスで100人が殺され、国立競技場の日韓戦途中に爆弾が爆発しても、月曜日には会社に行くような気がする。それが「テロに屈しない為に日常生活を変えない」というような、「例えV2が雨霰と降り注いでもその中で紅茶を飲む」ような矜持だったら格好良い。でもたぶん、僕の場合は、状況を認識する力や判断力が低いだけだろう。30代以上の方は地下鉄サリン事件の後の東京を思いだしてもらえれば分かると思うけど、どんな非日常と思える事件に対しても、都市の日常というのは以外と頑健なものだ。
    • そういえばこのころ、仕事がスケールアウトしなくて色々困っていた。取りあえずの結論は、「自分で全部やる」病から脱却しよう。その方法は、本当に良くわからなくて、手探りで傷つきながら見つけていかなきゃならないけれど……
    • とりあえず研究方針として「人と戦うときには、敵を超えようなどとは思わないことだ。それでは自分よりも強い敵に出会ったときにひとたまりもない。それよりも、敵の弱点を見つけるのだ。弱点を見つけたら、後は実行を恐れないことだ。それがなんであれ、たったひとつでも弱点があるのならば、打つ手は無限にある」という標語を掲げて頑張ることにする。
    • 原作小説が大好きなので、映画「ハーモニー」を見た。出来はなんというか、まあ。あとマトモに生きていると死にたくなるというのは、矛盾を感じるよな…… ハーモニーをして意識をなくしたい。(ついでにハーモニーの映画版の記憶もなくしたい)それとは別に、バカな映画をレイトショーで観るの、世界に自分の体は自分自身のものだと宣言できてとても清々しいものだ。
  • 2015年12月
    • いろいろ考えなければ行けないこと(「愛とはなんだろう?」とか)があって、精神力回復にガルパンの劇場版を繰り返し見ていた(通算5回)。この映画、大変中毒性があり、一週間ぐらい見ないでいると、もう一度どんどん見たくなってくる。皆も心が辛くなったらこう呟こう「戦車道には、人生の大切なことがすべて詰まっているね」
    • このまま、30年後も同じことをやっているのか、と考えてしまうと、恐怖で身震いが走る。最近思うのは、若さはいい、ということ。未来がある。それはきっと何者にもなれない未来だけれど、何者にもなれなかった現実よりは希望がある。よくある「いつか死んで(恒真)、無になるとしたら、いま生きていることはなんなのだろう」という思春期的考え、まだ答えはない。

本日一報、あるいは魂の郊外たる未来について

ネット上の俗語<ジャーゴン>で、「日本人は未来に生きてるな」というのがある。それは、日本の奇妙な風習(ペット型ロボットとか、奇妙なアダルトショップとか)に対する揶揄の言葉だと思うのだけれど、最近は、本当に日本人は未来に生きているな、と思う。マジなところ。


わたしたちは、未来に生きている。未来は一言で「退屈」だ。未来は単に広大で従順な魂の郊外のことだ。


でも、この感触は、歴史的には間違いなのかもしれない。僕は、僕が受けた教育によって、あるいは自分自身を教育することによって、たぶん、次のように思っている。私たちは、私たち一人一人に固有のもの、魂の機能、人間の機能、個人の機能――生きること、怒ること、悲しむこと、考えること――それらを「持っていて」、でも、現在が未来になる中で、それを切り離し、自分の手から投げ捨て、外注に出した。どこかのシステムが、メニュー化し、梱包し、提供する、テレビやコンビニで売られている商品にしてしまった。そう、無意識のうちに考えている。でも、それって本当なのか?


本当に、私たちが魂を持っていた黄金の時代――私たち一人一人が魂と人格を持ち、生きること、怒ること、悲しむこと、考えること、それらが自分の固有の物であった時代など、この国と社会に存在したのだろうか? 私たちは、そんな過程をすっ飛ばして、一息に古代から未来に連れ去られた、哀れな「人間」なのではないだろうか。人間になったことのない人間。大人になったことのない老人。

研究者は科学を研究するが、その研究自体は、科学ほど科学的ではない。良い研究をするには、科学と技術の良き専門家としてのプロフェッショナリティだけでは十分ではない。さらに必要なのは、より複雑で魅力的な能力だろう。それを情熱とか、パッションと呼ぶものもいる。だが、これについて語ることは難しい。というのも、情熱とは本来、議論すべきことではなく、人生の一部として情熱を生きるべきものだからだ。